訪問看護を続ける中で、何度も読み返している言葉があります。
ナイチンゲールの言葉です。
自分自身ではけっして感じたことのない他人の感情のただなかへ自己を投入する能力を、これほど必要とする仕事は他に存在しないのである。
若い頃の私は、この言葉の意味がよく分かりませんでした。
看護師の仕事は、病気を治す手助けをすること。
困りごとを解決すること。
苦痛を和らげること。
そう思っていました。
もちろん、それらは今でも大切な役割です。
けれど、訪問看護を続ける中で気付いたことがあります。
人は、自分が経験したことしか本当には分からないということです。
認知症になったことのない私は、認知症の不安を本当には知りません。
難聴になったことのない私は、聞こえない世界を本当には知りません。
余命を告げられたことのない私は、その気持ちを本当には知りません。
だからこそ、
「分かります」
と簡単には言えません。
以前の私は、困りごとを解決することが看護だと思っていました。
どうすれば転ばないか。
どうすれば薬を飲めるか。
どうすれば生活が安定するか。
けれど、在宅療養の現場では、答えが一つではないことが少なくありません。
危険があると分かっていても、自宅で暮らしたい人がいます。
塩分制限が必要だと分かっていても、好きな漬物を食べたい人がいます。
家族に迷惑をかけたくないと言いながら、本当は誰かを頼りたい人もいます。
そんな時に必要なのは、
説得ではなく、
理解しようとすることなのかもしれません。
その人が何を大切にしているのか。
何が不安なのか。
何を失いたくないのか。
私たちには分からないことばかりです。
それでも理解しようとする。
ナイチンゲールの言葉は、その姿勢を教えてくれているように思います。
振り返ると、私は患者でもありました。
病気で入院したことがあります。
看護師になる前、人生の方向が分からず迷った時期もありました。
メンタルを崩したこともあります。
だから利用者さんの気持ちが分かる、と言いたいわけではありません。
むしろ逆です。
自分自身ですら、あの頃の自分を完全には説明できません。
だから他人のことを分かったつもりにならないようにしたいのです。
訪問看護を続ける中で、
私は利用者さんの人生を変えるようなことはできないと思うようになりました。
けれど、
理解しようとすることはできます。
その人の見ている景色を見ようとすることはできます。
利用者さんのコンパスを、一緒に探すことはできます。
ナイチンゲールのこの言葉を読むたびに思います。
看護とは、
正しい答えを持つことではなく、
分からないまま理解しようとし続けることなのかもしれないと。
← 前の投稿 次の投稿 →
過去ブログのリストは こちら
(サイトマップを下にスクロール)
