訪問看護を通して見えてきた人生の統合
病棟看護師から訪問看護師へ転職して、
いつからか分かりませんが、仕事に対する感覚が変わりました。
忙しさはあります。
責任もあります。
けれど、どこか静かです。
ある日の訪問
ある日の午後、
最期が近い利用者さんのお宅に伺いました。
冬の終わりで、部屋には少し冷たい光が差していました。
ご家族は、いつものように世間話をしていました。
病状の話ではありません。
若いころの失敗談。
仕事で怒られた話。
どうでもいいような昔話。
私は足浴をしながら、その会話を聞いていました。
利用者さんは、うっすら目を閉じていましたが、
その話の途中で、ふっと口元がゆるみました。
声は出ません。
数値も変わりません。
予後も変わりません。
でも、その場は整っていました。
何かが正しい、というより、
ただ自然でした。
私はそのとき、
「これでいいのかもしれない」
と思いました。
何が“これ”なのか、うまく言えません。
けれど、医療者として何かを達成するという感覚ではなく、
その時間に居合わせていることそのものが、役目のように感じられました。
仕事というより、役目
病棟で働いていた頃、私は
役割を果たしている感覚がありました。
正確に、速く、間違えずに。
チームの一員として。
訪問看護では、
もちろん医療的判断もします。
でもそれ以上に、
「この人にとって、いま自然なのは何か」
を考え続けています。
指示の下で動くというより、
自分の内側に問いながら動く。
その繰り返しの中で、
仕事という感覚が、少しずつ薄れていきました。
代わりに残ったのは、
責任の重さを伴う静けさでした。
他人事ではなくなる時間
訪問看護では、
人が老いていく姿を、生活の中で見せてもらいます。
衰えも、戸惑いも、
家族の揺れも。
それは利用者さんの人生ですが、
同時に未来の自分の姿でもあります。
向き合っているつもりが、
向き合わされている。
内と外の境目が、
少しずつ薄くなっていきました。
それは怖い感覚ではありませんでした。
むしろ、深いところが静かに満たされていく感覚でした。
使命から祈りへ
最初は使命感だったのかもしれません。
役に立ちたい。
支えたい。
でも今は少し違います。
「うまくいきますように」ではなく、
「この時間が、その人にとって自然でありますように」
という祈りに近い感覚です。
私が何かを成し遂げるというより、
関わる時間が整っていくことを願う。
そこに、静かな充実があります。
笑いの共有
私は、人が笑っている姿が好きです。
以前は、自分の関わりで笑ってもらいたいと思っていました。
でも今は、
誰かが笑っていれば、それでいい。
その場に笑いが流れていれば、それでいい。
自分が中心でなくてもいい。
訪問看護を通して、
「自分が何かをする」という感覚が、
少しだけ溶けました。
統合へ向かう感覚
仕事と人生。
他人と自分。
生と死。
それらが、はっきり分かれていたものが、
少しずつ溶け合ってきています。
まだ途中です。
完成ではありません。
でもいま、私はとても静かです。
訪問看護は、
私にとって人生の統合へ向かう時間になりました。
若い看護師さんへ
もし今、
忙しさや不安の中にいるなら、
焦らなくて大丈夫です。
看護はすぐに意味が見える仕事ではありません。
けれど、誠実に向き合い続ける中で、
ある日ふと、
「仕事」という枠を越えてくる瞬間があります。
それは頑張って掴むものではなく、
静かに現れてきます。
いまは分からなくても、
どこかに残っていれば、それで十分です。
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