「終わりよければ全てよし」
昔から使われている言葉です。
私は若い頃、この言葉に少し違和感がありました。
最後さえ良ければ、それまでの苦労や失敗はどうでも良いという意味にも聞こえたからです。
けれど、訪問看護を続ける中で、この言葉の意味を少し違う形で考えるようになりました。
QOD(Quality of Death)という言葉があります。
「死の質」と訳されることがありますが、私はこの言葉を聞くたびに考えてしまいます。
本当に死だけを切り取って考えることができるのだろうか、と。
良い最期とは何でしょう。
苦痛が少ないことでしょうか。
家族に囲まれていることでしょうか。
住み慣れた自宅で過ごせることでしょうか。
もちろん、それらはとても大切なことです。
けれど、それだけではないような気がしています。
訪問看護をしていると、人生を振り返る時間に立ち会うことがあります。
アルバムを見返す方。
昔の仕事の話をする方。
若い頃の写真を眺める方。
自伝を書く方。
故郷の思い出を語る方。
あるいは、長い間会っていなかった家族の話をする方。
それは過去を懐かしんでいるだけではありません。
自分の人生を整理しているようにも見えます。
以前、重度難聴の利用者さんを担当していました。
その方は自伝を出版するほど文章を書くことが好きでした。
私は当時、不思議に思っていました。
なぜ、そんなに過去を書き残そうとするのだろう。
なぜ、自分の人生を振り返り続けるのだろう。
若い頃の私は、未来ばかり見ていたからです。
けれど、今なら少し分かる気がします。
人生の終盤には、未来を積み上げる時間よりも、過去を整理する時間が増えていくのかもしれません。
そして、その整理の中で、
「あれは無駄ではなかった」
「あの出会いに感謝している」
「苦しかったけれど意味があった」
という言葉に出会うことがあります。
事実は変わっていません。
苦労したことも、
失敗したことも、
後悔したことも、
消えてはいません。
変わるのは、その出来事の意味づけです。
私は、ここにQODの本質があるような気がしています。
良い最期とは、
人生最後の数日間のことではなく、
人生全体をどのように振り返るのか。
人生全体をどのように意味づけるのか。
そのことなのかもしれません。
訪問看護をしていると、
身体機能を維持するためのリハビリが、実は人生を整理するための時間になっていることがあります。
在宅生活を続けることが、家族と話し合うための時間になっていることがあります。
昔の写真を見ることが、自分の人生をまとめる時間になっていることがあります。
QODは、QOLの裏返しなのかもしれません。
どのように生きたのか。
どのように暮らしたのか。
誰と出会い、
何を大切にしてきたのか。
その積み重ねが、人生の終わりに振り返られるのだと思います。
「終わりよければ全てよし」
それは、最後だけが良かったという意味ではないのかもしれません。
人生を振り返った時、
苦しかったことも、
嬉しかったことも、
失敗したことも、
出会った人たちも含めて、
「良い人生だった」
と思えること。
終わりよければ全てよし。
私は今、この言葉を、
人生のまとめ方を表す言葉として受け取っています。
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