訪問看護へ転職して、しばらく経った頃のことです。
ある日、机の上に置いてあった製図コンパスを見て、不思議なことに気付きました。
「コンパス」という言葉は同じなのに、病棟で見ていたコンパスと、訪問看護で出会ったコンパスは、まったく違う役割を持っていたのです。
製図コンパスは、円を描く道具です。
片方の針を紙に固定し、もう片方の鉛筆で円を描きます。
針は動きません。
動かないからこそ、美しい円が描けます。
病棟で働いていた頃の私は、この鉛筆だったように思います。
決められた基準。
標準的な看護。
正しい手順。
決められた範囲の中で、できるだけ正確に円を描こうとしていました。
それは決して間違いではありません。
命を守るために必要な看護です。
ところが訪問看護へ来ると、もう一つのコンパスに出会いました。
方位磁石です。
こちらのコンパスには、円を描く鉛筆はありません。
あるのは、北を探し続ける磁針だけです。
利用者さんによって向かう方向は違います。
「家族と過ごしたい。」
「最後まで家で暮らしたい。」
「仕事を続けたい。」
「散歩に行きたい。」
一人ひとりが目指す北は違います。
だから、私たち看護師も、一つの正解を描くことはできません。
その人の北を、一緒に探していく仕事なのです。
振り返ると、病棟では私は鉛筆でした。
決められた範囲の中で、正しい円を描こうとしていました。
訪問看護では、私は磁針になりました。
利用者さんが大切にしているものへ向かって、一緒に進む方向を探しています。
同じ「コンパス」という言葉でも、その役割はまったく違っていました。
そして今では思います。
看護師にも、二つのコンパスがあるのではなく、その時々で役割が変わるのだと。
正確に円を描くことが必要な場面もあります。
北を探すことが必要な場面もあります。
どちらが正しいのではありません。
その場に合ったコンパスを使い分けること。
それが、看護という仕事の奥深さなのだと思います。
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