訪問看護をしていると、
「お看取りが多いでしょう」
と言われることがあります。
確かに、在宅療養の中でお看取りに関わることはあります。
けれど実際には、病院や施設ほど多くの人の死に立ち会うわけではありません。
在宅で最期を迎えるためには、ご家族の存在や介護力が必要になります。
しかし、核家族化や独居世帯の増加により、自宅で最期まで過ごすことが難しい方も少なくありません。
だから私は、人の死に数多く立ち会ってきたわけではありません。
それなのに、なぜこれほど「別れ」というものについて考えるようになったのでしょうか。
その理由は、在宅療養の現場で見てきた別れが、命だけではなかったからです。
訪問看護を始めた頃の私は、別れとは人が亡くなることだと思っていました。
けれど、利用者さんとの関わりの中で少しずつ考え方が変わっていきました。
在宅療養の現場では、人は何度も別れを経験しています。
歩けていた自分との別れ。
運転できていた自分との別れ。
料理ができていた自分との別れ。
仕事をしていた自分との別れ。
一人で暮らせていた自分との別れ。
家族を支えていた自分との別れ。
利用者さんは、できなくなっていくことの中で、過去の自分と何度も別れていきます。
私は、その姿をたくさん見てきました。
ある人は、車の免許を返納しました。
それは単なる免許証との別れではありませんでした。
好きな時に出かけられる自由との別れでした。
ある人は、長年続けてきた畑仕事をやめました。
それは趣味との別れではありません。
何十年も続けてきた生き方との別れでした。
ある人は、住み慣れた自宅を離れ施設へ入所しました。
それは引っ越しではありません。
長い年月を過ごした暮らしとの別れでした。
以前、祖父母の葬儀で僧侶の話を聞いたことがあります。
どのような話だったのか、内容はほとんど覚えていません。
けれど、不思議とその穏やかな声や空気感だけは今も記憶に残っています。
人の別れを数多く見てきた僧侶だからこそ語れるものがあったのでしょう。
今振り返ると、葬儀とは故人との別れだけではなかったように思います。
思い出との別れ。
役割との別れ。
家族の時間との別れ。
故人を通して見えていた世界との別れ。
そうした様々な別れを受け止めるための時間だったのかもしれません。
そんなことを考えるようになった出来事がありました。
事務所の近くで瀕死のコクワガタを見つけたことがあります。
昆虫が好きな利用者さんに相談すると、その方が引き取ってくださいました。
一度は死んだと思われたコクワガタでしたが、生還し、二度の冬を越え三度目の春を迎えました。
けれど四度目の春を迎えることはできませんでした。
亡くなったと聞いた時、自分でも不思議なほど寂しさを感じました。
昆虫の死で、そこまで寂しく感じたことはありません。
なぜなのだろう。
そう考えた時に気付きました。
私はコクワガタだけを見ていたのではなかったのです。
弱っていくコクワガタに向き合う利用者さんを見ていました。
丁寧に世話をする姿。
命を大切にする姿。
そして、老いていくコクワガタに、どこか自分自身を重ねているような姿。
私は、その時間を見せてもらっていたのです。
だから寂しかったのかもしれません。
利用者さんが亡くなった後、ご家族から
「あなたたちに会えなくなるのが寂しいわ」
と言われることがあります。
私はその言葉がずっと心に残っています。
それは利用者さんとの別れだけではありません。
ご家族との別れでもあります。
一緒に悩み、一緒に考え、一緒に歩いてきた時間との別れでもあります。
そして、もしかするとご家族もまた、利用者さんに向き合う私たちの姿に何かを重ねて見ていたのかもしれません。
訪問看護を続ける中で気付いたことがあります。
別れは、命だけではありません。
人は生きている間に何度も別れていきます。
過去の自分と。
役割と。
暮らしと。
大切な習慣と。
そして、いつか大切な人とも。
けれど不思議なことに、別れがあるからこそ見えてくるものもあります。
当たり前だった日常の価値。
人とのつながりの温かさ。
その人が大切にしてきた生き方。
別れは失うことでもありますが、同時に気付くことでもあります。
訪問看護を始めた頃の私は、人との出逢いを大切にしていました。
今もその気持ちは変わりません。
けれど続けるうちに思うようになりました。
人生は出逢いだけではなく、別れによっても形づくられているのだと。
だから私は、利用者さんとの関わりの中で今日もまた、別れと出逢っています。
そして、その別れから多くのことを教わっています。🌻
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