※これは私自身の、あくまで個人的な見解です。
みなさんは、医療や介護の場において「人と人との関係の公平さ」について考えたことはありますか。
私は病院に勤めていた頃、いつも「傾き」を感じていました。医療者は診る側、患者さんは診られる側。組織に属し、治療を担う私たちは、どうしても立場が上に映ってしまう。患者さんは保険制度のもとで費用を支払う立場ですから、形式的には労働と対価の関係なのですが、現場にいるとその上下の構図が色濃く感じられてしまうのです。
在宅に移ってから、その感覚は少しずつ変わっていきました。
ある日、90代の利用者さんのご自宅を訪ねたとき、私はバイタルサインを測ろうと血圧計を取り出しました。するとその方は「今日はあんたの方が元気そうだね」と笑いかけてくださいました。看護を提供しているはずが、気づけば私の方が“気遣われる側”になっていたのです。
別の日には、長年農業をされてきた方が「この土を触ってると落ち着くのよね」と庭の畑を見せてくれました。硬いはずの土を撫でる手は、柔らかく慈しみに満ちていました。その姿に、私は「人はどんな状態になっても、生きることを耕しているのだ」と感じさせられました。
またある方は、若い頃の戦中の体験を静かに語ってくださいました。空襲で家族を失い、それでも生き抜いてきたという言葉には、時代を超えて私に届く重みがありました。私は看護師である前に、一人の後輩として、その歴史を受け取っているのだと強く実感しました。
そして、最期を迎えることを選ばれた方が「ここが私の居場所だから」と語ったとき。私は在宅という空間が、医療の場であると同時に「生の最終章」を刻む舞台でもあるのだと気づかされました。
こうした場面に出会うたび、私は学びを受け取っていることを自覚します。医療や介護は「望んで受けたい」と思って受けるものではないからこそ、不公平さを帯びる。けれど、その生活の断片に触れるとき、私は一方的に与える存在ではなく、確かに“与えられる存在”にもなっているのです。
そして、その学びは不思議と循環していきます。
ある利用者さんからいただいた言葉や気づきが、別の利用者さんへの声かけや姿勢につながっていく。地域の中で、与えることと受け取ることが繰り返され、編み込まれていく。そこにこそ、私は「公平さ」を感じます。
病院での上下の「傾き」があるからこそ、在宅で見えた水平の「つながり」の輪郭が、より鮮明になりました。
在宅看護とは、与えることと受け取ることの境界が溶け合う場です。
ギブアンドテイク - その言葉の本質は、計算された取引ではなく、人と人とが互いを形づくる往還の中に宿っているのだと思います。
もしあなたが「与える側」にいると感じていても、実は同時に「与えられている側」なのかもしれません。その視点で日常を振り返ったとき、あなたはどんな“ギブアンドテイク”を思い出すでしょうか。
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